江口寿史展
EGUCHI in ASIA
2024/11/09(土) 〜 2025/01/12(日)
福岡アジア美術館
2020/12/09 |
国内はいま、第3波とも呼ばれるコロナ禍の急激な感染拡大に直面している。ところが、この春の第1波とは大きく異なり、都心はどこもにぎやかで、若者たちの歓声にあふれている。
にもかかわらず、一日あたりの感染者の数は次々に過去最高を更新している。これ以上、感染拡大が加速することがあれば、医療体制の受け入れも崩壊の瀬戸際となりかねない。だが、以前のような緊急事態宣言の呼び声は、いまだ現実味を帯びてこない。それはなぜだろう。果たして、経済活動と感染防止対策の両立というような、取ってつけた理由だけだろうか。
一般的に考えたとき、「緊急事態」の発出は政治による強権発動の一形態であり、ファシズムに通じる危険をはらんでいる。だが、コロナ禍でひとつわかったことがある。それは、緊急事態の概念そのものが変質しているということだ。私には、コロナ禍にもかかわらず、経済活動が変わらずに回り、オリンピックがあたりまえのように開かれる状態のほうが、一種のファシズムのように思えてならない。それは、人々の行動をコロナ禍以前よりもいっそう画一化し、一律に制限する。「Go To」の号令(命令形)などは、その典型だ--もしや、これが「令和」ということなのだろうか。ならば、それこそがファシズムではないのか。
反対に、緊急事態であることを公認することは、そうした新たなファシズムの形態に亀裂を入れ、ありのままの現実を露呈させる恐れをはらんでいる。言い換えれば、政府は国家がいま緊急事態下にあることを認めたくないのだ。おそらく、本当に切羽詰まるまで緊急事態の発出は回避されるだろう。それは「経済を回す」というような表面的な口実とは根本的に異なる。順調な統治形態の根本からの変更を意味するからだ。
フランスの思想家ギー・ドゥボールは、そのような統治の形態を「スペクタクルの社会」と呼んだ。スペクタクルとは訳するのが難しい言葉だが、わかりやすくいえば、ほかでもないオリンピックのような巨大なイベントが社会を束ねる(ファシズムのファッショとはもともと束ねることを意味する)状態を指す。ドゥボールは、そうしたスペクタクルが人々の本来の生を抑圧していると考え、それを綻ばすものとしてシチュエーション(状況)を提示した。この着想が、シチュアシオニスト・インターナショナルという20世紀のストリートを舞台とするアートの運動を下支えした。
もしそうなら、緊急事態とは、スペクタクルの順調な継続を困難にする巨大なシチュエーションの一種と考えられないか。ドゥボールは、美術館での展覧会もスペクタクルの一種と捉えていた。とすれば、緊急事態下で、経済や娯楽と同様に、アートの活動も失速すると考えるのは、いささか性急な判断かもしれない。そもそも、アートはスポーツや旅行のようなスペクタクルを生み出すものではない。そうした日常の根底を問い、誰も疑おうとしない常識を見つめ直し、個人個人をもうひとつの見えていなかった現実へと導くものだ。
もしそうなら、アートにいま本当の意味で求められているのは、スペクタクルを継続するための公的な助成などだけではなく、コロナ禍での新たなファシズムに対抗する新しい概念として、緊急事態を再編成する思索と行動なのではないだろうか。(椹木野衣)
=(12月3日付西日本新聞朝刊に掲載)=
椹木野衣(さわらぎ・のい)
美術評論家、多摩美術大教授。1962年埼玉県生まれ。同志社大卒。著書に「日本・現代・美術」「反アート入門」「後美術論」「震美術論」など。
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