江口寿史展
EGUCHI in ASIA
2024/11/09(土) 〜 2025/01/12(日)
福岡アジア美術館
2022/11/10 |
先日、コロナ・パンデミック以前から毎年開催されていた、とあるアートの全国大会が久しぶりに開催された。といっても、オンラインと対面とのハイブリッドであったが、やはり対面で志を同じくする者が一斉に集うことの貴重さを改めて実感する機会となった。
いま対面、と言ったけれども、一時は対面ということだけならオンラインでも画面越しとはいえ顔は合わせているのだから、実際に会うなら面接と呼ぶのが正しいというような意見もあったが、面接という語はなんだか試験のようなニュアンスがあって誤解を招くし、いまはもう対面と言えば同じ場所を共有して話し合うことを意味するようになっている。このような語用の一時的な混乱や定着も(原発事故のときもそうであったが)非常時に特有の現象だろう。
話を戻せば、改めて思ったのは、対面で人と人とが会うということは、なにも会議の開催というような形式的なこととはまったく違うという体感だ。些細(ささい)なことかもしれないけれども、たとえばオンラインの会議で休憩とはマイクとカメラを切って一人になることを意味する。他方、対面時での休憩とは、会議のような形式では捉えることができない、細切れだけれども大きな実質を伴う会話が交わされる大事な時間だ。オンラインではこのような側面が見事に削(そ)ぎ落とされてしまう。チャット機能を使えばよいではないかと言われるかもしれないが、肉声とはやはり違うのだ。
これは休憩に限らない。会議が始まる前のいい意味での緊張感や雑多さ、そして会議を終えたあとの自由に弛緩(しかん)した空間は、集った人たちが共有した時間をゆるやかに共有し直す場を提供するし、ときに決定的な意味を持つことも少なくない。
極端なことを言ってしまえば、人と人が対面で会うことの核心は、このような余白のほうにあるとさえ考えられる。オンラインで済むことで面倒な移動や会場の準備がいらなくなり楽になったという声を当初は多方面から聞いたが、結局それは人が集まるための経費や、時間を管理することの経済合理性が徹底されたという側面のほうが強いのではないか。
特にアートのように創造性や想像力がなによりも重視される機会においては、合理性の追求は、本来得られるはずの成果からは逆を向いているように思えてならない。だからこそ無駄や雑の効用ということをあえて問いたいのだ。これは前回、アートにおいて偶発性から始まったはずの文字通りの「イベント」が、現在では徹底して管理される「催し」へと変化してしまったことにも通じる。
冒頭で触れた会議の翌日は、対面で参加した人たちが芸術祭を見て回る時間に当てられたのだが、その様子を見ていて改めて目が覚まされるように感じた。というのも、道中で初対面のはずだった人が次々に繋(つな)がり、新しい展覧会の企画や提案が次々にまとまっていったからだ。しかしよく考えてみれば、コロナ・パンデミック以前では、このようなことが当たり前だった気もする。いや、きっと当たり前だったはずなのだ。
同じかたちのコマのなかに閉じ込められ、全員がいっせいに前を向く余白や雑味のないオンラインの画面では、起こりようがないことだ。この3年間で、そのような効率のよさばかりを重宝がることで、なにか失ってはならないはずの大事な感覚をいつのまにか忘れさせられているような気がしてきて、実は少し恐ろしくなった。(椹木野衣)
=(11月3日付西日本新聞朝刊に掲載)=
椹木野衣(さわらぎ・のい)
美術評論家、多摩美術大教授。1962年埼玉県生まれ。同志社大卒。著書に「日本・現代・美術」「反アート入門」「後美術論」「震美術論」など。
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