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【復刻連載】病?実験?ゴッホの画面はなぜ歪み、渦巻いているのか

2021/12/27 LINE はてなブックマーク facebook Twitter

■ゴッホ 8つの謎を探る旅─第7の謎
(この記事は2011年1月22日付で、内容は当時のものです)

 ファン・ゴッホ(1853~90)の手紙を読んでいくと、しばしばとても美しく、詩的な文章にはっとすることがある。

 中でも、次の一節は、切なくなるほどに美しい。

 〈このごろのようにこんなに自然が美しいとき恐ろしいほど頭が冴(さ)え渡ることがある。そんなとき、もう自分が自分を感じることができず、絵が夢のなかのように、ぼくのところへやってくる〉

 この手紙を書いた翌年、ゴッホは彼の代表作といえる『星月夜』を描いている。燃え上がる炎のように天に伸びる糸杉、渦を巻く星々、遙(はる)か天空に満ちるエネルギーを画面に凝縮したような一作である。

 この作品をはじめ、『糸杉』『アルピーユ山脈が見えるオリーブの木』など、1889年5月に移り住んだ南仏・サンレミ以降、ゴッホの晩年の作品のいくつかには、歪(ゆが)みやうねり、渦巻きのようなものが見られるようになる。それはなぜなのか? 

 

 「難問中の難問でしょう」「おそらくそれは誰にも分からない。いや研究者の数だけ答えがある。そして、どれが正しいかも実証できないはずです」。取材は、今回のゴッホ展の監修に携わった名古屋市美術館学芸課長・深谷克典氏のそんな言葉から始まった。

 うねりや歪み―まず、頭に浮かんだのは昔、話題になった一つの論文だった。それは1979年、福岡市の耳鼻科医・安田宏一氏が医学誌に発表した論文「VAN GOGHはメニエール病か」だ。

 この論文は、500通を超す「ゴッホの手紙」に残されている体調、精神状態などについての記述を詳細に分析した上で、彼の病気が目まい、耳鳴り、頭痛、吐き気などを症状とする内耳障害のメニエール病だった可能性が高いとした。

 そして、ゴッホの『星月夜』の渦巻き流れるような星空は「メニエール病特有の水平回旋混合眼振の発作の最中に彼が見た夜空の印象を絵に再現したもの」と推測した。さらに、柱など垂直な線はまっすぐ引かれているのに、屋根など横の線は波打っている『オーベールの教会』については、内耳障害で特に耳石器が悪くなったときに起こる症状(ジャンブリング現象)が関係しているのではないかとした。

 この新説は当時、大きく新聞で紹介され、米国で賛同の論文も出された。一方、批判の論文も書かれた。

 かねがねゴッホの病気については、てんかん、分裂症、躁鬱(そううつ)、アルコール依存症…とさまざまに推測されてきた。現在、彼の病気が何だったのかは「新史料が見つからない限り特定できない」(圀府寺司・大阪大学教授)というのが定説という。今、ゴッホの研究者たちは、彼の絵に現れるうねりや歪みをどう解釈しているのか? それは彼の病気と関連しているのか?

ゴッホが燃え立つ炎のように描いた糸杉(左)のある風景。
魚眼レンズで撮影すると画面はゆがむが、独特の表現には近づけなかった=フランス・サンレミ
(撮影・岡部拓也)

 「絶対間違いありません。うねりも歪みも、ゴッホが意図的に計算して行った表現。病気は一切関係ない」

 アムステルダムのゴッホ美術館の前主任学芸員シラール・ファン・ヒューフテン氏は即座にこう答えた。

 「ゴッホは常に新しい絵画表現に挑戦した画家だった。アルル時代は、いかに色をアグレッシブに使うか、徹底的に色彩の可能性を追究した」。そして、それに自分なりの結論を得たゴッホは、サンレミで、また新たな挑戦に乗り出したという。

 「その実験こそ、伝統的な筆遣い(ストローク)を捨てることで、どんな新しい絵画表現が可能か、だった。うねるようなタッチの筆遣い、渦巻くようなリズミカルな筆遣い。これらすべては、誰にも描けない自分ならではの絵画を生み出す実験だった」

 

 昨年9月1日。パリ・セーヌ川沿い、宮殿を思わせるオルセー美術館の研究室。夏の陽光を濾過(ろか)したような初秋の光がブラインド越しにあふれていた。その部屋で聞いた学芸員のローランス・マドリーヌさんのうねりや歪みに関する解釈には、うってかわって感覚的な説得力があった。

 「私は何度か、ゴッホが絵を描いた、その現場に出かけて立ってみた。すると、風や雲や星などの自然界を支配している“時間のうねり”のようなものを感じる瞬間が訪れた。自然と一体化するような感覚。ゴッホの研ぎ澄まされた神経は、この“時間のうねり”のようなものを感得し、それを絵画に閉じ込めたのではなかったか」

 彼女は「ゴッホが病気であったことは認めるが、病気と彼の絵画を結びつけることには反対だ」と言った。「ゴッホは新しい絵画を求め続けた人、さらに遠くを目指した画家だったと思うから」と付け加えた。

 一方、南仏サンレミでゴッホが入院していた精神科病院に付属するクリニックで、現在、患者の治療を行いながら、ゴッホの芸術と病気について研究している精神科医ジャンマルク・ブロン氏は、二つの要因が関連していると推測していた。ゴッホの精神状態がしばしば躁的状態と鬱的状態を行き来していたこと、そして、ゴッホが日本の浮世絵の影響を強く受けていたことの二つだ。「私は、ゴッホのうねり渦巻く画面は、彼が精神的にハイな状態のとき描かれたと考えている。そして、彼は葛飾北斎の浮世絵の波の表現を参考にしたと考えている」

 歪み、うねりは病気や精神状態と関連しているのか? それとも絵画制作上、意図的に計算した表現なのか? あるいは実際に見えた光景だったのか? それとも、それらが複合したものであるのか?

 

 ゴッホの手紙がしばしば詩的で美しいように、弟のテオからゴッホ宛ての手紙にもしばしば震い付きたくなるような一節がある。これは『星月夜』が描かれたころのものだ。

 〈きみの最近の絵には従来になかった色彩の美しさがある。(中略)さらにきみはそれを乗り越え遠くへ進んでいる。もし形体の歪曲(わいきょく)によって象徴的なものを見ようとする人々があれば、ぼくはきみの絵の多くにその象徴を見出(みいだ)す。いいかえれば自然や生物に関するきみの思想の縮図の表現にそれがみとめられる〉

 この手紙に従えば、画面のうねりや歪み、渦巻く星たちは、ゴッホが意識的に計算して描いたものである比重が高いように思える。それは、宇宙観や自然観、宗教観など人間精神の奥底や不可視の領域を描きだす手段だったのかも知れない。

 美術史学者の木下長宏氏は、『オーベールの教会』のように、歪んでいても辻褄(つじつま)が合っているゴッホの絵画について、こう言う。

 「あれは、遠近法が成り立つか、ぎりぎりの臨界点を探った絵ではないのか」。そうかも知れない。ゴッホは写実描写の限界を探っていたのか?(藤田 中)

取材協力(当時) オランダ政府観光局、フランス観光開発機構、西鉄旅行


▼「ゴッホ展―― 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」
 2021年12月23日~2022年2月13日、福岡市中央区の市美術館。オランダのクレラー=ミュラー美術館、ファン・ゴッホ美術館の収蔵品から、ゴッホの油彩画、素描など計52点のほか、ミレー、ルノワールなどの作品も紹介する。主催は福岡市美術館、西日本新聞社、RKB毎日放送。特別協賛はサイバーエージェント。協賛は大和ハウス工業、西部ガス、YKK AP、NISSHA。観覧料は一般2000円、高大生1300円、小中生800円。1月3日、10日を除く月曜休館。12月30日~1月1日と4日、11日も休館。問い合わせは西日本新聞イベントサービス=092(711)5491(平日午前9時半~午後5時半)。

■「ゴッホ展ーー響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」のチケットのご購入は
コチラから。

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