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【復刻連載】始まりはゴッホ記念館に残された68歳の「訪問者ノート」

2021/12/24 LINE はてなブックマーク facebook Twitter

■ゴッホ 8つの謎を探る旅─プロローグ
(この記事は2010年11月27日付で、内容は当時のものです)

 画家のフィンセント・ファン・ゴッホ(1853~90)が生まれたオランダ南部の小さな町・ズンデルトにあるゴッホ記念館を訪ねたのは、今年8月28日のことだった。日本は連日35度を超す猛暑というのに、一帯は早くも枯れ葉が舞い、秋の装いだった。

 記念館のカウンターに置いてあった、赤い表紙の「ビジターズブック」(訪問者ノート)を何げなくめくってみた。オランダ語、英語、ドイツ語、フランス語…さまざまな言語で書かれたいくつものメッセージに交じって、たったひとつ日本語の記述があった。ごく最近、書かれたもののようだった。こう書いてあった。

 〈日本から来ました。14歳のときゴッホの絵に出会い感動しました。彼の絵は貧しき人々、なにげない風景などに命を吹き込んだ絵だと思います。それから54年を経て、68歳になり自転車を持参して、アルル、サンレミ、パリ、オーベール(フランス)、ボリナージュ地方のクエム、アム(ベルギー)、生誕地のズンデルト、青年時代のニューネンなど彼ゆかりの場所を訪ねてきました。彼の絵は、勇気を与えてくれます。特に落ち込んだ時に彼の喜び、悲しみ、楽しみなどが感じられ、心がいやされ、もう一度立ち直ることができます。37歳、10年間で2000枚の絵で後世の人々に光を与えています 堀江剛〉

 一読してゴッホのことにかなり詳しい人物と感じた。でも、何が、この68歳の日本人男性をゴッホの足跡をたどる旅に駆り立てたのか? この人を捜し出し、聞きたいと思った。記念館の女性職員に心当たりを尋ねた。日本人男性という以上の記憶はなかった。
 

 空はどこまでも青く、強烈な日差しが車のフロントガラスに鋭角に反射していた。『アルルのはね橋』『ひまわり』『寝室』などの代表作が描かれ、ゴッホの絵が本格的に開花する南フランスのアルルを訪ねたのは1週間後の9月4日だった。町の中央にアルル・ファン・ゴッホ財団の美術館があった。ゴッホの作品ではなく、ゴッホを心から慕う芸術家たちがゴッホにささげるために制作した絵画や彫刻、写真などを展示している施設だ。

 1枚の写真に心ひかれた。写真には風雨に破れ、剥(は)げかけたゴッホの顔のポスターが写し込まれていた。作者は「Hiroaki KAMIZONO」。日本人のようだった。

 説明文にこうあった。〈アルルで摘んだひまわりを手にファン・ゴッホの墓に参ったのは1990年7月29日だった。その帰り道、彼が亡くなるまで住んでいたという下宿跡を訪ねると外壁に剥がれかかった1枚のポスターがあった。驚くことに、死んでちょうど100年目の日、ファン・ゴッホはポスターとなって僕の来訪を待っていた。話しかけてみたが幽霊のように街を行き交う人々をじっと見詰めている〉

 この「カミゾノ」という人物は、何者なのだろうか? 南仏のアルルからパリの近郊のゴッホの墓まで、600キロを超える旅。ゴッホの花・ひまわりを携え、この人をその旅に駆り立てたものは何だったのか?
 

 ゴッホの絵画、そしてゴッホという人物は、なぜ、これほどまで人々を引きつけてやまないのだろうか? 37歳の短い生涯、生前理解されなかった画業、発作、自殺、燃え尽きるような薄幸の人生。その悲劇性が誘因だろうか? それとも、求道的で身を削るような創作活動から生み出された、その作品の強烈で奔放な色彩とタッチだろうか?

 いや、その双方だろう。ゴッホという画家は、視覚情報と言語情報がペアで認識される珍しい画家ではないか。私たちが幼いころから教科書や印刷物で「名画」として刷り込まれた視覚情報、そして手紙や伝記や映画などを母体に形成された「ドラマチックな生涯」という言語情報―多くの人がゴッホの足跡をたどったり、展覧会に列をなすのは、この一セットになった記憶を確認し、上書きし、更新する作業ではないのか?
 

 ゴッホのことを調べはじめて1カ月。私は、彼の絵『夜のカフェテラス』の舞台となったアルルのカフェテラスに座って、この連載記事の構想をぼんやり考え始めていた。彼の生涯、画業には、多くの謎がある。

 なぜゴッホの絵の画面はあんなにつややかに輝いているのか? 彼が一番、愛した女性は誰だったのか? なぜ彼の晩年の絵はうねり、歪(ゆが)み、渦巻いているのか? なぜゴッホの絵は天文学的な価格で流通するのか? そしてこの堀江剛、カミゾノという人物は何者なのか?…

 これから、日本、オランダ、フランスを舞台にゴッホにまつわる八つの謎を追う旅を始めようと思う。

ゴッホが『夜のカフェテラス』に描いた南仏アルルのカフェ。第2次世界大戦で被災、戦後しばらくは家具店だったが、1960年ごろ、絵に忠実に修復したという(撮影・伊東昌一郎)

 帰国後、まず、とりかかったのは「堀江剛」氏捜しだった。手掛かりは名前、68歳という年齢、ゴッホファン、今夏、自転車持参で渡欧―の四つだった。ネット検索で、同姓同名の大学教授や大手製造業の部長、都内の不動産会社の社長などがヒットした。が、年齢が違っていた。電話番号案内を頼りに、北海道から電話をかけ始めたが徒労が続いた。

2週間後、ある人の四国霊場巡礼日記のブログに「静岡の堀江剛さんという人が、高知の接待所の訪問者ノートに味のある文章を残している」との記述を見つけた。訪問者ノート! もしかして? これが、正解だった。


 JR静岡駅で待ち合わせした堀江氏は、元静岡市職員で、今年7月21日から41日間、中学時代からずっと好きだったゴッホの足跡をたどってきたと言った。「人生の締めくくりに、やり残したことをしたい」と。

 1958(昭和33)年、高校1年の時、上野の東京国立博物館のゴッホ展で、実物の彼の絵を見て震えた。「人間や自然への限りない慈しみがある」。そう感じた。

 大学を出て市職員として猛烈に働いた。仕事も家庭も順調なとき、ゴッホの作品から元気をもらった。40代後半に体を壊したとき、その後不本意な異動を命じられたとき、53歳で奥さんを亡くしたとき、ゴッホの絵を見ることが自分を支える心棒になってくれたと語った。

 「ゴッホの描いた人物画の目はどこまでも澄んでいるんです。あの目を見ていると、ゴッホは私なんかより、ずっと深い悲しみと優しさを持っていた。そう思うのです」

 そうかもしれない。みんな、それぞれの思いを仮託しながら、ゴッホの絵を見てきた。(藤田中)

取材協力(当時) オランダ政府観光局、フランス観光開発機構、西鉄旅行


▼「ゴッホ展―― 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」
 2021年12月23日~2022年2月13日、福岡市中央区の市美術館。オランダのクレラー=ミュラー美術館、ファン・ゴッホ美術館の収蔵品から、ゴッホの油彩画、素描など計52点のほか、ミレー、ルノワールなどの作品も紹介する。主催は福岡市美術館、西日本新聞社、RKB毎日放送。特別協賛はサイバーエージェント。協賛は大和ハウス工業、西部ガス、YKK AP、NISSHA。観覧料は一般2000円、高大生1300円、小中生800円。1月3日、10日を除く月曜休館。12月30日~1月1日と4日、11日も休館。問い合わせは西日本新聞イベントサービス=092(711)5491(平日午前9時半~午後5時半)。

■「ゴッホ展ーー響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」のチケットのご購入は
コチラから。

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