企画展
ソシエテ・イルフは前進する
福岡の前衛写真と絵画
2021/01/05(火) 〜 2021/03/21(日)
09:30 〜 17:30
福岡市美術館
2021/01/20 |
日本が戦争へと向かい、思想への圧力や生活統制が強まる時代に、芸術に夢を見た「前衛」の表現者たち。福岡の「ソシエテ・イルフ」を軸に足跡をたどる。
国民動員する写真 国策を警戒しつつ 民族や郷土捉える
物資と人員の集中を要する戦争の遂行には、国民一人一人を駆り立てる必要がある。有効な道具の一つとして政府が注目したのが写真である。1938年2月、内閣情報部は国策宣伝誌「写真週報」を創刊した。視覚的に訴え掛ける力を利用し、軍への協力を呼び掛けた。
絵画が戦争画一色になったように、写真も戦争協力へ巻き込まれるのか。福岡市の前衛集団「ソシエテ・イルフ」の久野久は、その危険性を敏感に察知していた。写真愛好家として、シュールレアリスムの影響を受けた前衛的な写真を発表していた久野は38年9月、雑誌に記事を発表する。
戦争開始により、出来事を記録する報道写真の役割が重くなり、アマチュア界でも国策を表すような写真が重視される風潮があると指摘し、<本当に自分の満足する芸術良心によって作画していれば、国策でなくともいい筈(はず)>と書いた。芸術は自らの衝動を源泉とし、何かの目的のために生み出されるものではない、という思いがあふれている。
37年、雑誌「カメラアート」の誌上座談会では、イルフを主導した高橋渡も、写真を<目的芸術的>と捉え<国家的な仕事に携わらなければならない>と主張して報道重視の立場をとる写真家に対し、<そうは思わない>と反論した。
だが39年には雑誌上で、シュールレアリスムを取り入れた写真を<気の弱いインテリ連中が戦争の苛酷(かこく)さから逃れ>て<安易な生活場面を求めようとする態度>だと断じる批評家もいた。じわじわと写真による芸術表現には冷たい視線が向く時代へとなっていく。
そんな戦前日本の時代状況の中で、前衛写真を引っ張った人物が大阪市出身の小石清(1908~57)だ。イルフの同人誌「irf 1」には、39年10月に小石が福岡を訪れ「一夕を共に」したとの短い記述が載り、交流もあったことがうかがえる。
小石の作品にはときに目がくらむような夢幻的な世界が広がる。36年に発表した「疲労感」は、時計と月と街並みの写真を組み合わせ<疲労感の昂(たか)まった泥酔過程に於ける感情の表現>を試みた。
奇抜すぎて「よく分からない」との批評も受けた表現を高い技術が支えている。小石はモンタージュや、現像時に露光を過多にして白黒を反転するソラリゼーションといった幅広い技法に通じ、写真技術の指南書「撮影・作画の新技法」を著した。
その能力を国は見過ごさなかった。小石は38年、「写真週報」の従軍カメラマンとして中国へ赴く。ただ、報道目的の前にも、小石の芸術表現の信念はやすやすと折れない。帰国後の40年に発表した連作「半世界」は、戦地で写した風物に「肥大した戦敗記念物」「黙劇」などと意味深な題を付け、従軍写真の中に戦争への冷めたまなざしを落とし込んでいる。
芸術家肌で豪快なところもあった小石は戦後、港湾としてにぎわいを見せていた北九州市の門司港を新天地に選び、「小石清写真相談室」を開設して写真を続けた。現在も北九州市門司区で「カメラの小石」として会社を続ける長男の小石康雄(67)は「前衛のイメージが強いが、技術的な足跡も評価されるべきではないか」と話す。
国策に近い立場にいた小石のような写真家だけでなく、民間の写真愛好家たちも戦争の激化に伴い、社会的な要請と自らの信念の折り合いをつけざるを得なくなる。イルフの面々も例外ではなかった。
高橋は41年頃から、熊本県などの村落を探訪し、古くから残る人々の生活や民家を撮影対象としていく。当時の写真雑誌では<民族伝承学的に重要な価値>があると評された。
詩人の北原白秋(1885~1942)と交流があった田中善徳は40年頃から、白秋の故郷である福岡県柳川市の写真を撮り始める。43年、白秋の詩に田中の写真を添えた写真集「水の構図」を刊行する。同書の後記で田中は<写真に於(おい)てもシュールリアリズム(原文ママ)をアブストラクトを吸収した>と語った。掲載作品の中には「翁索麺(そうめん)」のように、郷土の風物を記録するだけにとどまらず、撮影対象が自然に織りなす造形の面白さを捉えたものも目立つ。
民族学的な研究や郷土愛の表現は、米国や中国と敵対する「皇国」日本の目指す進路に矛盾しない。高橋や田中の模索は、国策に沿わない表現を認めないという風潮に警戒しつつ、自身の創作を世に問うた葛藤の結果なのかもしれない。=敬称略(諏訪部真)
=(1月7日付西日本新聞朝刊に掲載)=
写真週報
政府による広報紙の一つ。内閣情報部(後に情報局)が編集、刊行した。1938年2月の第1号から、終戦直前となる45年7月発刊の374、375号合併号まで続いた。写真を活用し、節約や食料増産など日常生活面からの戦時体制協力を国民に呼び掛けた。撮影担当者には小石清の他、木村伊兵衛、土門拳、林忠彦など戦後も活躍した写真家もいた。
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