日中文化交流協定締結40周年記念
特別展「三国志」
2019/10/01(火) 〜 2020/01/05(日)
09:30 〜 17:00
九州国立博物館
2019/11/17 |
九州国立博物館で開催中の特別展「三国志」。英雄豪傑たちが活躍した舞台となった中国のゆかりの地を訪れ、英雄たちの実像と虚像に迫った。
南京から長江沿いに南西へ約50キロ。製鉄業が盛んな安徽省馬鞍山市は中国・三国時代、呉の武将朱然の墓が発見された街だ。墓を博物館に整備し、前を走る道を「朱然路」と名付けてアピールしているが見学者の姿は少ない。一方、馬鞍山市から約1500キロ上流にある三国時代の蜀の首都・成都では軍師の諸葛亮を祀(まつ)る「武侯祠(ぶこうし)」が観光客でにぎわっていた。英雄たちの“明暗”はどこで生じたのだろうか。
「関羽を殺しちゃったからね」。三国志関連の書籍を多く手掛ける早稲田大の渡邉義浩教授(中国古代史)が、朱然の不人気の理由を指摘する。三国志で人気の蜀の武将関羽は219年、呉との戦いで捕まり処刑される。関羽を捕らえた武将こそが朱然なのだ。
悪人扱いぶりは歴史書「三国志」を基にした物語版の代表格「三国志演義」にも見られる。作中で朱然は222年、蜀が呉に起こした「夷陵(いりょう)の戦い」で蜀の猛将趙雲に討たれてしまう。記録では249年に病死しており、27年も早く死んだことにされているのだ。
実際は夷陵の戦いで活躍し、呉の皇帝孫権の信頼も厚かった。朱然家族墓地博物館の宣伝教育主任、陳盈さんが訴える。「人格的にも素晴らしい英雄。本当の彼のことを知ってほしい」
正史とは異なる物語の広がりが人物像の定着に深く影響している。渡邉教授によると「演義」のフィクション部分の多くは関羽か諸葛亮に関係するという。
華北の山西省出身で信義に厚かったとされる関羽は中華圏で商売の神として信仰の対象だ。横浜や長崎をはじめ、世界各地に関羽を祀る「関帝廟(びょう)」がある。
この関羽信仰の広がりの背景には同郷出身の山西商人の存在がある。塩をはじめ、穀物や織物などの商いで富を築き、金融業にも進出。明代・清代には朝廷の資金を扱う政商として政治や経済、文化を牛耳った。
故郷の英雄を旅の守り神として崇拝する山西商人の台頭によって中国国内で広く受け入れられることで、一武将が商売の神様に変貌した。さらに各方面のパトロンだった山西商人の意向もあり、関羽は絶対的な善となり、明代に完成した三国志演義に影響を与えた。
一方、諸葛亮の物語を浸透させたのが、南宋時代の儒学者朱熹だ。当時、魏を正統とすることが主流だったのに対し、前代の後漢王朝の血縁とされた劉備の蜀を正統と位置付けた。
渡邉教授は「朱熹は漢を続かせようとした諸葛亮が好きだったようだ。そうなると蜀を善玉にしなければならない」と解説する。
朱熹が大成させた朱子学は、日本では江戸幕府が官学とするなど東アジアで大きな影響力を持つ。蜀を正統とする朱子学が官学であった時代に著された物語が民間に広まり、関羽信仰と相まって「正義の蜀」「正義の劉備」のイメージが広まっていく。物語の多くが劉備を“正義の味方”として描く背景がここにある。
成都の武侯祠の奥にある劉備の陵「恵陵」には今も手向けられる花が絶えない。武侯祠博物館の梅錚錚研究員は「劉備をはいい皇帝であるとみんな思っている」と指摘する。
信仰と儒学で強化された物語は善悪の二項対立で三国時代を描いたが、実際は単純ではない。物語では悪人として描かれた朱然の墓からは蜀の漆器が出土している。蜀と交流があったことは否定できない。
「戦う資金を得るためにも人や物の行き来は結構あったのではないか」。九州国立博物館の川村佳男主任研究員はそう分析する。
支配者の歴史ばかりを記した正史と物語。記述の裏には武将だけでなく、市井の人々の暮らしも隠れている。(古賀英毅)=11月8日西日本新聞朝刊に掲載=
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