日中文化交流協定締結40周年記念
特別展「三国志」
2019/10/01(火) 〜 2020/01/05(日)
09:30 〜 17:00
九州国立博物館
2019/11/13 |
九州国立博物館で開催中の特別展「三国志」。英雄豪傑たちが活躍した舞台となった中国のゆかりの地を訪れ、英雄たちの実像と虚像に迫った。
北京から南西に約450キロ、河南省安陽市郊外の西高穴村。ひなびた農村の一角に中国三国時代の英雄の墓はあった。主は一代で魏の礎を築き、呉、蜀の二国と覇権を競った曹操(155~220)である。
曹操高陵と呼ばれるこの墓の発見が発表されたのは2009年。当初は「別人の墓だ」などと否定的な見解も多かったが、場所が古い記述に合致し、墓が造られた時期や規模などから、今は間違いないとされている。何より副葬品の質が「貧弱」なことが曹操らしさを示している。
「三国志」には曹操が「普段着のままで葬り、金や玉、珍しい宝を副葬してはいけない」と遺言したという記述がある。実際に見た出土品は形はいいが上等といえない物もあった。発掘を担当した河南省文物考古研究院の潘偉斌研究員が、出土品を整理する部屋を案内しながら指摘した。「数は多いが金や玉が入っていない。本来、玉で作るものが石製だ」
権力者でありながら“粗末”な墓にこだわった曹操とは何者なのか。
若い頃には「治世の能臣、乱世の姦雄(かんゆう)」と評された。時代は天下大乱である。姦雄にふさわしく、後漢王朝を揺るがす「黄巾の乱」の平定で頭角を現すと、中原を制して後漢の丞相(じょうしょう)(=首相)、そして魏王となった。戦乱で荒れた農地を耕す屯田制を導入し、実力重視で人材を登用するなど革新的な政策を実行。兵法書「孫子」の研究者であり、詩文に秀でた文学者でもある。
多才で慣習に縛られない変革者は、三国時代の一つ前の後漢時代に支配的な考えとなり、現在まで影響を及ぼしている儒教に距離を置いた。小高い丘を築いた呉の皇族とみられる墓や、蜀を建国した劉備の墓とは対照的に、墳丘がない墓の外観が副葬品以上に曹操の思想を如実に現している。
東京国立博物館の市元塁・主任研究員(中国考古学)は「土盛りは祖先の顕彰につながる。それを慎めということでもあったのではないか」と推察する。
祖先の顕彰は儒教の中心的な考えで、従来の手厚い副葬品にもつながる。だが、道徳を重んじ、秩序維持を優先する儒教は変革の停滞を招き、古代には最先端を走っていた中国の科学技術の発展を妨げたという見方もある。
曹操は儒教と一線を画す空気をつくろうとした。早稲田大の渡邉義浩教授(中国古代史)は「曹操の考え方が継承されていたら、中国は大きく変化していた可能性がある」と語る。
高陵が見つかった安陽市には3千年以上前の古代中国殷王朝の遺跡「殷墟(いんきょ)」もある。90年前に発掘が始まり、公園化された遺跡は世界遺産にも登録され、同市一の観光地となっている。
初夏に訪れた曹操高陵は屋根や壁で囲まれ、公開に向けて整備が進められていた。中に入るどころか外観の撮影すら許されない。観光で訪れる人もいないが、整備が終われば殷墟と同じような効果がもたらされるかもしれない。
高陵から車で5分ほど離れた畑の中に「魏王東湖」と記した、場違いな門がポツンと立っていた。傍らに座っていた呉計明さんが語った。「曹操の博物館ができると、ここも豊かになる」。変革で一時代を築いた曹操の影響は、没して1800年経た21世紀にも生き続けている。(古賀英毅)=10月31日西日本新聞朝刊に掲載=
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